月影
かつて、己の全てを捧げて愛した人がいた。
彼と過ごした時間は、今まで生きてきた時に比べたら決して長いものではなかったけれど。
それでも、彼なくしては生きている自分を想像出来なくなってしまうくらいには長い時を共に過ごし。
しかし、結局はまるでガラス細工のように容易く壊れた絆。
一度は壊れた心。
今、その人が数年の歳月を経て目の前にいる。
外見は確かに少し大人びてはいたものの、以前と変わらぬ光を宿した瞳。
何が変わって、何が変わらないままなのか。
答えを出すのは、今。
シエラが一番驚いた事は、他の人から見ればとても些細な事に過ぎない事だろう。
どこか躊躇いがちなシゲンに誘われて行った、彼が今を生きているその場所………グラナダ私掠艦隊シーライオン。そこは今までシエラが生きていた場所とは全く異質の空間で、それでいて暖かな空気に包まれていて。
彼女は安らぎや居心地の良さを感じる前に気後れしてしまいもしたけれど。
そこで、シゲンは笑っていた。
確かに少々シニカルで意地悪げではあったが、それは紛れもない笑顔で。
彼の笑顔を見たのは、初めての事だったから。
決して短くはない時間を共に生きてきた筈なのに、そんな何気ない事に驚いて、衝撃を受けて。
(………あなたは、見つけたのね)
生きるべき場所。求めていたもの。愛すべき誰か。
それが自分の側になかった事に、少しだけ寂しさを感じはするけれど。
絶望や憤りを感じる事は、もうなかった。
夜の闇の中にあっても、彼の存在感は圧倒的ですらあった。
秀麗な横顔に少しだけ笑みを浮かべて仲間達の元に戻ろうと誘うシゲンに、シエラはそっと頭を振る。
訝しげな色の瞳をちらりと見上げ、シエラは微笑んだ。
「ねぇ、シゲン。もう一つ聞かせてくれる?」
「なんだ?」
「あなたはゾーア人の解放を諦めていないと言ったわ。でも今あなたはこの艦隊に身を寄せている。…どうして?」
この船団の船長であるグラナダ提督の子ホームズとシゲンの仲が良好な事は解っている。彼等の隊に入って間もないシエラにだって、この2人の絆の深さは容易に窺う事が出来た。
しかし、いくら仲が良かった所で、その目的までもが完全に一致している訳ではない。
ホームズは、ゾーア人の解放を成し遂げようなどとは全く考えていないだろう。彼に悪意があるという意味ではなくて、彼には関係がない事だからだ。
なぜなら、ホームズ自身がゾーア人に悪意を抱いている訳ではないからである。他人を迫害する人間の心理も解らない代わりに、迫害される者の苦しみや嘆きも、ホームズにはきっと生涯理解する事が出来ないだろう。それが悪いかどうかは、別次元の問題だ。
だからこそ、どうしてシゲンがホームズと共にいる道を選んだのかが、彼女には腑に落ちなかった。
「別にあなたを非難したい訳じゃないから。………答えられない?」
慎重に言葉を重ねたシエラを、シゲンは軽く笑い飛ばした。決して不快ではない笑いの微粒子が舞う。
「不思議か?まぁ、お前にはそう見えるかもしれねぇな」
すっとシゲンが天に手をかざす。その動作はまるで満天の星々を掴み取ろうとしているようにも見えた。
「世の中ってのは上手くいかないもんでよ。最短距離と思っていた道が実はとんでもない回り道だったっていう事もある」
漆黒の瞳は、見た事もない色の光が満ちていて。
「その逆も、また然りさ。解るか、この意味?」
「…………」
「あれから俺は、もう一度色々な事を見つめ直してみた。その結果見つけ出したものも色々あったし、未だに解らねぇ事もある。でも、そんな中で面白いもん見つけちまったんだよ」
声すらたてて笑いながら、シゲンは伸ばした掌をぎゅっと握りしめた。
「この世の中、………腐った所もそれなりにマシな所も全部ひっくるめて、古い秩序を叩き壊せるだけの力を持ったバカと、新しい秩序を生み出せる可能性を秘めたガキ。いる所にはいるもんだよなぁ、あーゆーの」
「それが、ホームズなの?」
「バカの方な。もう一人がラゼリアのリュナンだ。………奴等の前には、未来がある。いや、違うな、望む未来を引き寄せて自分に従わせるだけの『強さ』を持ってる。これだ、って思ったよ。正直言ってな」
そう遠くない過去に思いを馳せているであろうシゲンの表情はとても晴れ晴れとしていた。
「確かに、あいつらは……特にホームズの野郎なんかはゾーア人の解放なんか考えちゃいねぇよ。あの馬鹿はむしろ何も考えちゃいないだろうさ。でも、だからこそあいつの通った後にはどのような色にも染まるまっさらな道が残る。俺が夢見た未来へと続く道も、絶対にある……いや、俺が……『俺達』が、創るんだ」
これで満足か?
声に出さずにそう続け、そして熱くなった自分を幾分恥らうかのようにシゲンは顔を背けた。
「それに、あいつらには俺がついててやらねぇと。放っといたら何しでかすか解りゃしねえよ」
言い訳のようにも聞こえるそんなセリフ。シエラは思わずくすくすと笑ってしまった。
(それも理由なんでしょうけど。本当は何よりも、ただあそこにいたいだけなんでしょう?)
シゲンが見つけた、安住の場所。彼は自分の居場所を、生きるべき道を見出していた。
素直に祝福してあげたいと思う。
(…………私も、このままじゃ駄目ね)
彼にはもはや暗黒に染まった過去の記憶は必要ないだろう。時折その残滓が目の前に浮かんできて苦しむ事もあろうが、それに捕われて闇に堕ちていく事は二度とあるまい。
瞳を見れば解る。かつては魂を捧げて愛した、その漆黒の瞳。
闇を宿していながら限りない光が広がるそれを、いっそ独占したいとすら切望したのはいつの事だったろうか。
(いつまでもあの頃のままではいられないもの。私も、私なりの答えを見出したのだから)
「?………どうした、シエラ?」
「シゲン。昔の事を憶えている?」
「…………」
出来るだけ軽く言ったつもりの言葉でも、シゲンはとっさに答えを返す事が出来なかった。気まずい沈黙が流れかける。しかしシエラは内心で苦笑しただけだった。あまりにも予想通りだったから。
「大丈夫よ、今更あの頃に戻りたいと思っている訳じゃないの。ただ、決着をつけたいだけ」
「決着?」
「そう。私達、最悪の壊れ方をしたもの。私は自分の理想をあなたに押し付けて、あなたは私が信じていたものを破壊した。あなたが残した傷、私が残した傷。……それは今も消えていない。そうでしょう?」
「………シエラ」
口を開きかけたシゲンをそっと制す。そして出来る限りの笑みを浮かべてシエラは続けた。
「私が愛したのは、あなたじゃなかった。『ゾーアの魔剣士』という救世主、ガーゼル以上の存在だった私の神。あなたは、最初から気付いてたのね?」
「………あぁ」
「あなたが求めたのは、私じゃなかった。あなたの心に開いた穴を愛情で埋めてくれる存在なら、誰でも良かった。だから、私以外の女にも愛を求めていたのね」
「……………………」
答えはない。
「最初から、愛し合うには私達の形は歪みすぎていた。あなたと別れて、ずっと考え続けて、………やっと解ったの。作るべき絆を間違えていたのね。だから、結局形にならずに壊れた」
それだけの事、だったのだ。
それだけの事を理解するまでに、互いにどれだけ傷付け合っていたのだろう。
「シゲン。あなたは見つけた?あなたの心を埋めてくれる、本当に愛すべき人を」
「………………あぁ」
「それは私?」
「………………違う」
「そう。やっぱり」
何故か心の底から笑いがこみ上げてきて、衝動に耐え切れずにシエラは笑った。
不思議そうに見つめるシゲンの視線を感じても、笑いの発作は収まらない。
目尻から涙が流れるのを感じても、なお。
良かった。
これで、終わらせられる。私の幼くて我儘な初恋。
そして、始められるわ。
同じ夢を見る、かけがえのない仲間としての新しい関係を。
いずれ来るべきゾーアの真の解放の旗手となるあなたに、同朋として今度こそ全ての力を捧げられるわ。
「どうしたんだよ、お前。いきなり笑い出すし、変な事ばかり聞いてくるし」
「だって、嬉しいんですもの」
「はぁ?」
形だけを見るならば、シエラはシゲンに振られた格好になる。彼女の以前の愛情を知っていただけに、シゲンはつい声を上げて不審げな表情をしてしまった。
そんな彼に、穏やかな顔でシエラは微笑む。
「ねぇ、最後にもう一つだけ、私の頼みを聞いて」
「なんだよ?」
飛び切りの笑顔。迷いも躊躇いも、もはやない。
シエラは言った。
毅然とした意志を込めて、かつての恋人、そして未来の自分達の導き手に。
「終わらせて。あなたの手で、私達の恋を。そして始めましょう。本来培うべきだった関係を。同じ夢を見る同志というのも、そう悪くはないわ」
少なからぬ痛みを伴って導き出した答え。
しかしもう痛みを感じる事はない。
己を取り戻した今では、これこそが正しい在り方だったのだと確信できたのだから。
目の前に広がる道は様々な色を浮かべ、限りない未来へと続いている。
end.
シゲン&シエラ話。(×にあらづ。これは譲れん)
恋人じゃなかったんだろ〜な〜と思っていたのにも関わらず、ザプレの「元恋人」の一文を見て、それでもいっか、といきなりそれまでの説を翻してしまった節操なしの自分に乾杯(爆笑)。
これがうちのシゲン&シエラのベースになります。だからシゲンのイルに来い発言も、彼女には別に残酷でもなんでもなくなったり。
昔の恋人ではあっても、今は彼を女として愛している訳ではないし、彼から男として愛されたいと思っている訳でもないから。穏やかな友愛、強固な同胞意識、かけがえのない仲間。いいなぁそーゆーの(笑)。恋愛事の絡まない男女の友人関係ってカッコイイと思いません?ただやっぱり性差を超えた友情って育みにくいのも事実なんでしょう。始まりは恋愛から、っていうのも自然かもしれません。この二人にはそういう関係であって欲しい。