例えば、過去という存在はどれだけ忌まわしくとも現在の自分を形作る基となっているものである。
 過去、現在、そして未来。これら全ては連綿と繋がる一続きのものであり、何か一つだけを切り離して葬り去る事など不可能な事なのだろう。
 昔はその事実を思い知り、軽い絶望も覚えた。
 取り返しのつかぬ過ちばかりを選んで掴み取っていた、そんな青くも愚かしい時もあった。
 忘れたい、消し去りたい。そんな事ばかりを思わされていた「過去」という代物を、それでも少し苦笑して受け止められるようになった今では、それらの全てを懐かしくすら思う。
 随分と丸くなったものだ。しかし、悪い気はしなかった。










 一時の通り雨が過ぎ去った後の穏やかに凪いだ海原を進む船は、ここが海上だという事を暫し忘れてしまうくらいには静かに波を切って進んでいく。甲板の縁に背を預けて、何をするでもなく空を見上げていたシゲンの目に、数羽の海鳥が羽ばたく様が飛び込んできた。
 あの鳥と同じ名を持つ姫がいるリーヴェの地まで、あとどのくらい掛かるだろう。グラナダへと舵を取るこの船が再び大陸へと辿り着くまでは、多分あともう少し。今後の予定を考えるならば、あまりゆっくりもしていられないのは確かだったが、本心を言えばそれが惜しかった。
 どうせなら一秒でも長い時を二人だけで過ごしていたい。ふと、そんな甘い感傷を抱いてしまった自分に苦笑する。
 共に、恐らく短くはないだろう当てのない旅路へと踏み出してくれた少女の姿は目に映る範囲にはない。
 何処にいる?
 どうせこの小さな船の中の何処かにいる事は明らかではあるのだが。心の中だけで己に苦笑した。
 雨が上がり雲が晴れた空の色はどこまでも深く抜けるような青。昔は嫌いだったその色が、酷く心を安らげていく。
 (…………変わったよな、俺も)





 シゲンにとって、過去とは切り捨てるものであり、未来とは言葉の上だけの概念でしかなかった。
 一年後、五年後、十年後の自分の姿。そんなものは最初からどこにも存在してはいない。シゲンにとっての未来、それは一人の女を手にかけた瞬間で途切れているべきものだった。
 その先になど、興味はなかった。どうでも良かった。
 例えば、その歪んだ本懐を遂げられずに無様な屍を晒す事になっても構わない。それは少し前の自分の本心。
 誰にも漏らした事はなかったが、どうやら義父にだけは見破られていたようでもある。次に会う時までには若気の至りと忘れていて欲しい、多少の気まずさと共に今はそう思う。
 いつ死んだっていい、そんな自暴自棄気味な絶望も、気が付けば綺麗に消えてしまっていて。
 存在しない筈だった未来の姿も、ぼんやりとではあったが目の裏に映るようになってきた。
 心の中の澱が洗い流されたような、そんな微笑ましい錯覚。
 騙されているのも悪くはない。
 「シゲン?どうしたの、こんな所で」
 今までの人生で、一番多く聞いてきた声。ゆっくりとそちらの方角へ首を巡らせると、そこには探し求めた少女が立っていた。甲板を濡らす雨の雫を器用に避けながら、少しずつシゲンの方へと近付いてくる。
 軽やかに翻る真紅の髪の向こう側に、儚い虹を見た。
 「探してたのよ。雨が上がったばっかりだっていうのに、もうこんな所に出てるなんて思わなかったわ」
 「あぁ。悪いな、ジュリア。寂しかったか?」
 「もうっ、また子供扱いするんだから……」
 優しく頭を撫でられて、しかしその扱いが不服なのか頑是無い幼子のように膨れる少女を眺めていると、自然と口元が綻んだ。
 遠い昔に愛したもの。時を経ても、それは些かも色褪せる事はない。
 「子供扱いは嫌か?」
 「当たり前じゃ……」
 可愛らしい不平を洩らす唇を、言葉の途中で塞いでやる。触れ合っていたのは一瞬だけでも効果は十分だったらしい。忽ち顔を髪の紅に負けぬほどに赤く染め上げてうろたえる少女を、シゲンは快活に笑い飛ばした。
 本気ではない怒声。自分のものではないような笑い声。
 まばらに残った雲の合間からは、眩い太陽光が差し込んでいる。



 「なぁジュリア、これから何処に行こうか」
 「これから?」
 穏やかにざわめく漣の音を背に、そんな取り留めのない事を口に出してみた。
 ふと思い出して再び見上げてみた虹は、そろそろ消えかけている。
 「…………どういう意味?」
 案の定、ジュリアはこちらの意味を測りかねたらしい。ふっと目尻から力を抜いて首を傾げる仕草は、あからさまに不審の色が見え隠れしていた。
 「リーヴェに行くんじゃないの?それからサリア、それでウエルトでしょ?」
 彼女の言葉に間違いはない。途中途中で二人の巫女姫を拾い、今頃は大陸を西断しているであろうホームズやリュナンの最終目的地であるウエルトに向かう。その秘密裏の強行軍の為に、彼等はろくに休息も取らずに故郷の島を後にしてきたのだから。
 ジュリアの声音と表情は、「それは嘘だったのか」と雄弁に語っていた。
 「そのつもりだけどな。でも、このまま二人でばっくれるのも悪くねぇなって思って、な」
 「もう、それじゃホームズ達はどうするのよっ」
 反駁しながらも、本気で憤っているような風情はない。
 案外、それも本当に悪くないかも知れない。最も、彼女のこの態度もシゲンの言葉が戯言だと知っていての反応なのだろうが。
 「ずっと奴等と一緒にいるって訳でもないだろう?いつか二人だけになったら、その時に」
 「気が早いのね」
 「そう遠い未来の事でもないさ、多分」
 くすくすと微笑みながら、ジュリアはそっとシゲンの隣に並び立つ。彼と同じく船縁に背を預けて、青い色が広がっているだけの遥かな空を見上げる様を横目に捉えた。
 ややあって指に感じたのは、細く柔らかく暖かい彼女の指が絡む感触。
 「あ、虹だ……。もう消えちゃうね、気が付かなかったな」
 蒼穹に架かる三色の橋は、もう輪郭くらいしか見えない。
 暗い雨の後に姿を現す、目にも眩しい光の橋。しかし僅かな時を経ただけで儚く消えていこうとしているそれを目にして、シゲンは不意に強烈な寂寥感を感じた。
 闇の中を手探りで掻き分けるように走り抜けた、少し前までの過去。
 光が満ち満ちているかのような錯覚すら感じる現在。
 今のこの至福とすら言える時が、あの虹と同じように、すぐにも失われてしまうものであるのではないか。
 馬鹿馬鹿しい妄想だ、と笑い飛ばす事は、どうも出来そうになかった。





 「ねぇ、憶えてる?」
 郷愁に浸るかのような遠い声に、心の奥の暗い場所へと落ちかけていたシゲンの意識は急速に覚醒を促された。傍らを振り返ると、いつの間にか遠くの空から視線を戻してこちらを見つめていたジュリアの瞳と正面から視線がかち合う。
 悪戯を仕掛けるような謎めいた光が、翡翠色の双眸に躍っていた。
 「何を?」
 「昔ね、約束してくれたじゃない。いつか外の世界を見せてくれるって」
 「あぁ…………」
 あの小さな島が世界の全てだった少女には、海の向こうにある世界というものは不可思議な恐怖を齎す存在でしかなかった。しかし、未知のものへの憧憬や子供らしい好奇心が彼女にもなかった訳ではなく、憧れと恐怖心の間でささやかに揺れ動く他愛ない時代がジュリアの上にも存在していた事を、シゲンは知っている。
 あれは、いつの頃だっただろうか。島の外の大陸からやって来た彼は、元いた場所が決して美しいだけのものではないという事を身をもって理解していたのだけれど。
 「でもお前は、一人で飛び出しちまっただろう?」
 「…………意地悪。だって、寂しかったんだもの」
 どこか怯えた表情を見せながら、それでも『外の世界を見てみたい』と呟いた彼女に言った言葉。
 いつか俺が連れてってやるよ、そう口にした時の気持ちには今も変わりがない。
 「ちょっとね、思い出したの。少し遅くなったけど、これで仕切り直しね」
 小さい頃に見てた夢の一つが、やっと叶ったって事かしら?
 楽しげに笑うジュリアの顔は、一筋の影も見当たらない。
 いつかは笑顔を見せる事すら出来ないほどに悩み苦しみもがいていた時があったとは信じられぬくらいに。
 陽光を受けて輝く髪の紅、優しく揺れる瞳の翠。今は消えた虹の中のその色よりも、ずっと綺麗だと思った。



 彼女の中で、恐らく一度は死んで再び甦った幼い頃の夢。
 停滞した時の流れの中では、そんな儚い存在は忘却の淵に沈んだまま浮かび上がる事がないのだとしても。
 一度や二度断ち切られただけで消え去るような脆弱なものだけで構成されている訳でもないのだろう。
 この世界も、彼女も、そして多分自分自身も。



 「…………そうだな」
 途切れたと思っていた未来は、その姿こそ不明瞭ではあるものの無事に繋がっている。
 苦笑したくなる程に青くて純粋だった頃の気持ちを思い出した。
 ただこの少女だけを世界の中心として生きていた、何の打算も計算も要らない素直で綺麗だった愛情。それが許されざるものであると悟るまでは、本当に一点の染みすら見えない暖かな感情だった。
 子供のままではいられない。それは解っている。知らない振りを続ける事も、今となっては不可能だ。
 それでも、何度殺しても生き返ってしまうものならば。
 いっそのこと、魂の奥深くまで抱え込んでやろう。そう心に決めたのは、さていつだっただろうか。
 「まずはリーヴェだね。色々と慌しかったから、この間はゆっくり出来なかったもの」
 「悠長に観光してる時間はないぜ?」
 「いいの。考えてみたら、初めてなんだもの。二人だけでいるのって」
 少しでもいいから、目一杯楽しみたいの。
 常になく浮かれた様子のジュリアの声が、耳を心地よく擽る。
 らしくもなく感傷的になっているのは、そのせいだろうか?
 何だか、可笑しくなった。
 「やっぱりこのまま二人で旅に出るか?」
 「もうっ。それは後で、でしょ」
 他愛ない戯言に呼応するように、波音が一度大きく耳朶を打った。
 覗き込んでみると、しかしそこはやはり静かな凪。無限に彩りを変えるその碧は果てしない深さを湛えている。
 …………感傷に浸るついでだ。少しばかり子供じみた行為も、偶にはいい。
 いくら疎ましくても過去は消せないもの。しかし前へ進む為にはいつまでもそれに囚われている訳にはいかない。
 絡めていた指をそっと外す。暖かな熱を感じていた個所に潮風の心地よい冷たさを感じた。
 「…………どうしたの?」
 訝しげに眉を顰めるジュリアの眼差しを、シゲンは無言のままで受け止めた。
 腰に差したままの長剣を、鞘ごと外す。
 幾度も命を救ってくれた剣。死という安易で甘美な解放の時を奪い去っていった剣。
 疎んじながらも手放せなかったのは、もしかしたらこの未来図が脳裏の片隅に描かれていたから、なのだろうか?
 移ろう事のない時の中では、全てのものが淀んでいくだけ。
 死という恐怖を感じずに済む?それでは生の素晴らしさも感じられはしないだろう。
 もう、必要ない。
 そしてこの呪われし魔剣にも、今こそ永遠の眠りを。
 「…………あばよ。もう誰にも見つかるなよ」
 大海原の真中へと投じた一振りの剣。
 ジュリアが驚きの声を上げて立ち尽くしている前で、シゲンの手を離れたそれはゆっくりと海中へ沈んでいった。
 小さな波を生んだ水面も、すぐに凪ぐ。海の碧さは一層深さを増したような気がした。





 「ちょっと、何するのよっ!あれ、大事なものなんでしょ?!」
 「別に。ただの拾いもんなだけだ。だから捨てた」
 「拾いものって…………。不死の魔剣を、そんな道端で見つけた銅貨みたいに言わないでよ…………」
 がっくりと肩を落とすジュリア。剣士の間では伝説の一振りであるそれを何の前触れもなしに投げ捨てた彼に対して、彼女は結構真剣に憤っているのかも知れない。価値を知らぬ人間でもあるまいし、何を考えているのか、と。
 答えは出ている。不死の象徴など、もうシゲンには要らないのだ。
 物理的にせよ、精神的にせよ。永遠を約束されたその先には、成長も進化も有り得ないのだから。
 「俺一人で生きてたって意味ないだろ。だから、もう要らないんだ。あれは」
 やんわりと言い含めると、ジュリアもそこに込められた意味を悟ったのだろう。頬を赤く染めて明後日の方向を見つめる少女を、シゲンは愛しさを込めてゆっくりと抱きしめる。
 黄金の太陽が輝く下、綺麗に晴れ渡った青空の中に、虹の幻が見えた。










 これから先、生きていく上で。楽しい事ばかりが待ち受けている訳ではない。
 むしろ苦難の方が多いだろう。世界を覆う闇は晴れても、まだこの光は全ての場所に平等に降り注いではいない。現在に失望する事もあれば未来に絶望する事もあるだろう。それは想像ではなく確信だ。
 それでも。何度傷付こうと、打ちのめされようと、其処から再び這い上がってくる事は出来る。例え無様であっても、それは全てを諦めて流されるよりは多分ずっと素晴らしい。
 一人では立ち止まりそうになってしまっても、傍らに共に夢を見てくれる者がいるのならば。
 「なぁ、ジュリア」
 「…………何?」
 「もう、俺から離れるなよ。俺も、何処にも行かないから」