D.O.D. 〜Drink Or Die?〜

 



-INTERVAL-

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 灯りを消した暗い部屋の中で、シゲンは一人グラスを傾けていた。
 窓際に腰掛けてろくに見えもしない月を熱のない目で眺めながら杯を重ねて、どれだけ経っただろう。既に机の上には空になった壜が一つ、所在投げに佇んでいる。二本目の壜も半分近くが既に空となっていた。三本目の瓶を蔵から持ち出しに行くのも、これでは時間の問題だろう。
 度数の強い火酒を割りもせずに流し込む。喉が焼けるような感覚を覚えるが、ただそれだけである。酔いの齎す酩酊感などは訪れてはくれなかった。
 しかしそれは別に今に始まった事でもない。そもそも彼は、どれだけ飲んでも酔った事などなかった。まあ身も蓋もなく言ってしまえば、ザルなだけなのだが。
 酒自体は別に特別好きな訳でもない。いくら飲んだって酔えないんだから、好きも嫌いもないのである。それでもここ最近、彼が毎夜のように酒の壜へと手を伸ばしてしまうのには、一応大きな理由らしきものがあった。
(……けっ、情けねぇ)
 気を抜けばすぐにも脳裏を埋め尽くす面影は、真紅の髪をした少女。それは三年振りにこの手に取り戻した愛しき妹のものだ。
 いや、妹などとは思っていない。何処の世界に、妹たる存在に分を超えた愛情を感じる兄がいようか。
 ……劣情を、感じる兄がいようか。



 若気の至りの家出を終えて、故郷と呼ぶべきこの島へと出戻ってきたのはついこの間のこと。それでも彼女との生活に帰って来て、はや一月が過ぎようとしている。
 だが、人の心というものは至極調子のいいものらしい。島を出ていた三年の間は上手く忘れることが出来ていた感情も、それを向けるべき対象がすぐ側にいる現在の状況では大きくなるばかり。我を忘れて押し倒したりしていないだけ、我ながら上出来だと思う。
 それでも、はけ口を求める暗い炎に対して、そもそも「我慢する」という事に慣れていなかったシゲンを思い止まらせたのは、実は理性の成せる賜物だけではなかった。
 久方振りの再会の場で、自分を認めるなり横面を張り飛ばした挙句に盛大に泣き喚き仕舞には子供のように泣き疲れて眠り込んでしまった彼女は、確かに自分が知っているままの妹だった。
 だが、その都合が良くて幸せな現実はどうやら一瞬の幻だったらしい。離れていた月日がそうさせたのか、それとも別に原因でもあるのか。彼女の態度は、今ではすっかり硬化してしまっている。世間一般では、それはごく普通の年頃の兄妹の在り方と呼ばれるに相応しいものではあるのだが、シゲンにとっては不服極まりないというのが偽らざる本音だった。
 さては己の心の内を悟られたか、と考えなかったわけでもない。兄と慕っていた相手に劣情を抱かれるというのは、恐らくは気持ちのいいことでもないのだろうから。
 しかしそれにしては、義妹の態度には恐れや警戒という色が全く見えないのも気になる。
 そんなことをこの一月の間、随分と思い煩っていたものの、生憎と何も進展はない。結局は納得のいく答えを出せぬまま、そして「兄妹」という軛から脱却出来ぬままに無為に時は過ぎ……
 そして身の内に宿る無聊を酒で紛らわす事しか出来ず、シゲンは今夜も深酒を重ねていた。父親にバレたら、穀潰しの分際で十年早いと袋叩きにされること請け合いであるが、幸運なことに父は現在大陸へと出稼ぎに出ている真っ最中である。
(でも、親父がいないってことは……今は家の中に、ジュリアと二人きりなんだよなあ)
 よく考えたら、こちらの方が心臓に悪かった。
「……ちっ」
 苦々しさを隠そうともせず、シゲンはグラスに残った酒を一気に流し込んだ。
 半ば自棄になって、再び壜に手を伸ばす。
 が、不意にその手が止まった。
 躊躇いがちなノックの音、小さな声。
 頭の片隅で、けたたましい警鐘が鳴る。





「……兄さん、入ってもいい?」
 おずおずと部屋に入ってくるその人影は、正しくたった今心に描いていたその人のもの。
 咄嗟に返事が出来なかった。
「やだ、何で灯り消してるの? それに、これ……お酒?」
 長く伸ばした紅い髪を一つに束ねた少女……ジュリアは、最初こそ怪訝そうな顔をしたがすぐに机の上に置かれた壜に目を留めた。そこに浮かぶのは、僅かばかりの興味。
「一人で飲んでたの?」
「……まぁな」
「ふぅん。……そういえばそんな歳になってたんだっけ」
 琥珀色の液体に目を向けながら呟くジュリアの横顔は、何だか寂しそうだ。
 彼女の中の自分は、ついこの間まで十五歳のままで止まっていた。背も今より低かったし、腕だって細かったし、勿論酒なども嗜んだりしなかった(……と、彼女は思っている)。
 空白の三年間という時間は、やはりたった一ヶ月程度では埋めることは出来ないようである。
 今、彼女の目に映る自分の姿は、もしかしたら見知らぬ他人にすら等しいのかもしれない。
「そうだよね。帰ってきてはくれたけど、一人でも出稼ぎに出れる歳になったもんね、兄さんも」
 それに対する返答は、心の中だけで呟いた。
(そうだよ、もう子供じゃないんだ。俺も、お前も)
 無理矢理にでもいいから、解らせてやりたい。
 自分がどれだけ彼女を求めて悶えているか、思い知らせてやりたい。
 そんな衝動が頭をよぎるけれど、無言の内に彼はそれを黙殺した。
 ……もう、慣れてきてしまった行為。



「あたしも飲んでみたいなぁ」
 ややあってジュリアの口から発せられた言葉は、シゲンにしてみれば想像の範囲内の事でもあった。
 未知のものへの好奇心。ごく普通の、ありふれた心情だ。
 そういえば、ジュリアの父たるヨーダも底なしの酒豪だった。その娘なんだから、彼女にだって酒への耐性はあるかも知れない。顔は似ていないが、一応この二人は実の親子であることだし。
 多少躊躇いを憶えはしたが、まぁいいか、とシゲンは楽観的に判断を下した。第一自分が彼女くらいの歳の頃を顧みれば、間違っても偉そうな事は言えそうにない。
「少しだけだぜ?」
 殊更に苦笑して見せながら、彼は言葉通り、本当に少しだけ酒を注いだ。
 しかしこれは大の大人でも火を吹く程の強い酒だ。そのまま飲ませたなら、アルコールに親しんでいない者なら倒れる事もあり得るだろう。シゲンは自分がザルなのは知っていたし、ジュリアの父親も自分と同等程度には底がないことも知っていたが、だからといって彼女もそうだという保証はないことくらい、ちゃんと了解してはいた。
 という訳で、酔い覚ましのために持ってきていた水差しをグラスに豪快に傾けて水割りを作る。出来上がったのは酒というよりはうっすらと琥珀に色付いた水という感じではあったが、まあ飲みなれない者は酒の味も満足に解らないだろうからこれでも構わないだろう。
「え〜、割りすぎだよ」
「ガキはこれでいいんだよ。飲んだ事もない奴が生意気言うんじゃない」
 不服そうなジュリアだったが、それでも差し出されたグラスを拒否する事はなかった。
 少しわくわくした表情で口をつける。
 白い喉が上下する。何故かその様を見ていたくなくて、シゲンはそっと目を伏せた。





 ……が。





「ね〜シゲン、あたしのはなし、ちゃんときいてる?!」
「き、聞いてる聞いてる。だからジュリア、少し落ち着け、な?」
「や〜! ぜったい、きいてなかった〜!! あたしのことなんか、シゲンはどうでもいいんでしょ〜!」
 真っ赤な顔で、据わった目で、呂律が回らなくなりかけてる口で、ジュリアはシゲンに詰め寄っていた。
 完全に、酔っ払っている。
(あんな薄めまくった酒もどきでここまで酔うか普通?!)
 冷や汗が背中を伝う。
 彼女は、顔だけではなくこんな所でも父親には似なかったらしい。
「そうだわ、シゲンはあたしのことなんてどーでもいーのよ……。あたしになんにもいわずにかってにいなくなっちゃったんだもん、あたしのことなんかきらいなんだわっ!!」
 わっと泣き伏すジュリア。絡み上戸なだけではなくて、泣き上戸でもあるようだ。
 しかし、そんな悠長な事を思っている余裕などシゲンにはなかった。
 酔った上での事とはいえ、何か物凄い誤解をされている。
「そんな訳ないって。俺はジュリアの事、大好きだから。ほら、泣き止めよ……」
 胸に縋りつく彼女を抱きしめて髪を撫でてやる。昔、ジュリアが泣き出した時にはいつもやっていた行為だが、今となっては息苦しい思いを感じるばかりである。時と場合を弁えずに湧き上がってくる激情を、彼は苦々しい気分でやり過ごした。
 自分の無節操さが、こんな時にはほとほと嫌になる。それというのも、今まで余りにも節操とかいう言葉と無縁の生活をしてきたせいだろうか。若気の至りとは、つくづく罪なものだ。
 ……なんていうことを場違いにも考えていたのは、ひとえに気を紛らわせるためだったのだが。
「うそだもん……すぐそうやって、ごまかそうとするんだわ……」
 ジュリアが顔を上げる。
 翠の瞳は涙に濡れ、ひしと彼を見据えていた。
 上気した頬。赤い唇。解れた髪。胸に縋りつく柔らかな身体。
 懸命な努力によって、必死に目に入れまいとしていたものが、一気に押し寄せてくる。



 自制心という強固な鎖が、その瞬間激しい音を立てて崩壊した。



 熱を持った頬に手をかけた。
 僅かに開かれた唇は、荒らされる時を待ち構えているようにも見える。
 今まで踏み荒らしてきたどんな唇達よりも可憐に、そして妖艶に映るそれに口付けようとする自分を、シゲンはどこか遠くで淡々と眺めている気がした。



 熱に浮かされているのは、きっと自分の方。

























 ちゃきん。
 自分の腰の辺りから聞こえてきたその物騒な音に、唐突にシゲンは覚醒を余儀なくされる。
 それは柔らかな唇に触れる、まさにその寸前。
 嫌というほど聞きなれたその音は……
 刀を、抜く音ではなかったか……?





「そーよ、あたしのことなんてどーでもいーのよ……」
 焦点のあっていない目で呟くのは、相も変わらず堂々巡りの問答で。
 たった今唇を奪われそうになっていた事など、ジュリアはまるで気付いていないようだった。
 ただし、その手にはいつの間にかシゲンの愛刀が握られている。
「お、おい、ジュリア……?」
 恐る恐る、抱きしめていた華奢な身体を引き離す。
 それに呼応するように、ジュリアは立ち上がった。
 鋭い刀の切っ先を、こちらに向けて。
「……いーもん、あたしだってひとりでもちゃんといきていけるんだもん……シゲンなんかいなくたって、へいきなんだもん」
 先程とは比べ物にならぬ量の冷や汗が流れる。
 血の気がざぁっと音を立てて引いていく気さえした。
「い、いや俺が悪かった。もうあんな事しねぇからそれ大人しく返して」
「……シゲンなんか、だいっきらい!!」




















 空の端が明らんでくる。
 息も絶え絶えになりながら、シゲンは呆然とそれを見ていた。
 力なく座り込んだ傍らには、幸せそうな寝息を立てるジュリア。
 その手元には彼の刀。
 そして滅茶苦茶に荒らされた部屋の残骸。
 彼の姿はというと、衣服をあちこち切り裂かれただけでは足りず、結局小さな刀傷がそこここに……。
「……酒乱だったとはな、あのザルのヨーダの娘のくせに……」
 ぼそりと呟いた言葉にも力などはない。
 あの後シゲンは、真剣を振り回したまま暴れまくったジュリアを宥める事も出来ずに、結局彼女が疲れて眠ってしまうまでの数時間にわたって地獄のような時を過ごすハメになったのだ。
 自分はただ彼女のささやかな望みを叶えてやっただけだというのに。
 それが何でこんな目に合わねばならないのか。
 ……剣を振り回される事はともかく、大嫌いとまで言われなければならないのか。
 どちらかと言えばそちらの方により多くのダメージを受けた気がする。
「……」
 ちらりと傍らの少女を見る。
 悩みなど何もなさそうな、無邪気そのものの寝顔。
 少しばかり、腹が立った。



 ただ暴れられて罵倒されるだけでは割に合わない。
 この際だから、そうした事をされても仕方のない事の一つや二つくらい、
 ……してやったって構わないだろう、と、思う事にする。
「お前が大嫌いでもな、俺は好きなんだぜ?」
 もうずっと、他のものが何も目に入らないくらい、お前だけを愛してたんだ。解ってんのか?



 数時間前触れ損ねた唇は、やはり柔らかく、そして温かくて。
 でも、寝込みを襲うような事しか出来ない自分に、彼はやっぱり嫌気が差したりもした。
 この上なく、情けないと思う。










 以来シゲンは、その時の教訓から自分の目が届く範囲では徹底してジュリアから酒の類を遠ざけていた。
 愛しい彼女の頼みなら何だって聞いてやっていた彼だが、彼女の「一緒に飲みたいな」という本来なら嬉しい筈の申し出も、心を鬼にして断り続けていたのである。
 それもみな、他でもない自分の身の安全の為。
 絡まれて泣かれるだけなら別にいい。酔った勢いで甘えてくれたとしたらこの上なく嬉しい。でも真剣を持って縦横無尽に暴れられたのでは、いくつ身があっても保たないではないか。
 第一へたに腕が立つ分だけタチが悪い。そりゃ確かにジュリアよりシゲンの方が剣の腕はずっと上である。しかし相手は酔っ払い、手加減なしに打ち込んでくる彼女は想像以上に手に負えなかったりしたのだ。
 あんな経験は一度だけで十分。二度も三度も味わいたいものではない。




















「……ということがあったんだよ。だから、遠回しに言っても気付かないなら誰が見ても誤解しようのないほどに解りやすく言ってやるしかないだろ」
「えーと……何で今の話がさっきの質問の答えに繋がるのかが良く解んねえんだけどよ俺」
「だから。嫌ってるって思われたままじゃ、口説くこともままならないだろうが。あいつは恋愛面では相当頭が固いから、一度こうと思い込んだらなかなか考えを変えないしな」
 淡々とした表情と仕草で煙草に火を付ける青年を、ホームズは実に胡散臭そうな目で見ていた。
 そうだ。確かに彼はシゲンに尋ねた。
「お前は何でそんなに傍迷惑で変態的な求愛行動を続けるのか」(←意訳)と。
 そして、返ってきた言葉が先ほどのアレである。
 これは……もしかしたら惚気られたのか。いやいや、そもそも根本的なところで何かが決定的に間違っている気がしなくもないのだが、そこら辺のことはどうなんだろう。
 というか、このリビドー丸出しの色ボケ男にもそんな可愛らしい時代があったということが、はっきり言って信じられない。酒を飲ませたら暴れられたというのも、……もしかしたら最初からいかがわしい目的でもあったんじゃないのか。そっちの方がよほど信憑性があるというものである。
(……俺、もしかしなくてもこいつを相棒にしたの人選ミスだったんじゃねえのかなあ……)
 色んなことを、色んな意味で。いちいちこんな事を真剣に考えるのもアホらしいのだが、それでもホームズはついうっかり真面目に嫌そうな顔をして頭を抱えこんでしまった。
 諸悪の根源かもしれない青年は、気だるげに紫煙を吐き出しながらこちらをちらりと一瞥する。
「おいこら馬鹿船長。何でそこで、借金のカタに船が競売にかけられたとでも言わんばかりの、最悪に不景気なツラ作るんだ?」
「縁起でもねえこと抜かすな!」





 結論。
 シゲンの過去語りは八割が嘘だと思う。
 しかし、思わずそのことを彼に漏らしてしまったら、手の甲に火の付いたままの煙草の先端が遠慮もクソもなく押し付けられてしまったりしたのは……一応、余談である。
 船長の受難は今日も続く。